「奥尻島レポート」
宮城大学地域連携センター
復興まちづくり推進員
及川清孝
10月2日から3日間の日程で、宮城大学地域連携センター「奥尻島視察」チームの一員として、北海道南西沖地震による津波で大きな被害を受けた奥尻島を訪問した。
島内での滞在時間が正味1日半という慌しさだったが、集落の高台移転や生活再建、産業再生、防潮堤の課題など、東日本大震災の被災地復興のヒントを得ることができ、実りの多い視察研修となった。
「奥尻島津波館」見学や「島民とのディスカッション」、「復興・まちづくり」の講話聴講、島内巡りなど多岐にわたる研修だったが、ここでは、被災の状況と防潮堤の現状について、現地で得られた資料や見聞などを基にレポートする。
1993年7月12日午後10時17分、奥尻島北方を震源域としたマグニチュード7.8の地震が発生した。島の震度は6と推定され、地震発生から数分で時速500`以上の津波が襲来したとみられる。地震の死者・行方不明者計230人のうち、奥尻島が死者172人、行方不明者26人と大半を占め、被害総額は約664億円に達した。
東日本大震災の被災者から見て驚くのは、第一に、復興の驚異的なスピードである。被災後3ヶ月も経たない10月1日、町役場には「災害復興対策室」が設置され、室長には北海道庁の職員が迎えられた。島のしがらみに囚われない人物が必要だと考えた町長が副知事に掛け合って決めた人事だという。最初の仕事は、まちづくりの基本方針について住民の合意を取り付けること。町は説明会を開催し、防災集団移転を選ぶのか、防潮堤を造って今までの所に住むのか選択を求めたが、住民の意見はまとまらなかった。
奥尻島南部の青苗地区は、津波とその後に発生した建物火災でおよそ7割に当たる342戸が全半壊し、島で最大の被害を受けた。青苗岬の先端にあった岬地区には75世帯が暮らしていた。大半が漁師だった。数分で襲ってきた津波で全ての家が押し流され、住民の三分の一が犠牲になった。同地区では、1983年に起きた日本海中部地震でも2人の犠牲者を出しており、10年間で2度目の被災とあって、全員一致で高台移転を希望した。一方で、火災で家を失ったものの、津波の浸水高がそれほどではなかった地区の住民は、元の場所での再建を望んだ。説明会は紛糾した。
そんな中、住民自ら考えようという動きが出てきて、10月9日には「観光・漁業・住宅・まちづくり」について考えることを目的に、「奥尻の復興を考える会」が設立され、青苗地区を中心に105世帯が参加した。会は、まちづくりに当たって、行政と住民を繋ぐ中間組織の役割を果たした。専門家を呼んで、青苗地区のまちづくりをどう進めるかについての学習会を開催。11月に入り、メンバーが仮設住宅を回ってアンケートを取った。結果は「一部高台移転」が20l超、「全戸高台移転」が30l超、「わからない」が40l超だった。町長が会の総会に出席し、「防潮堤の建設と地盤の嵩上げを前提に、津波が来た場所にも家を建てることができるようにする。特に危険性が高いと思われる地区については、全戸を高台に移転させる」と語った。その後、住民説明会を重ねると共に、北海道庁の支援を得て震災から5カ月後の12月には、「復興基本計画」が決定した。青苗地区では、新しい住宅地は海面から6bの高さで造られることになり、翌年6月には地盤の嵩上げ工事が始まった。防潮堤の建設も並行して進められ、被災から1年も経たないうちに、新しいまちづくりがスタートした。震災から2年後には、嵩上げされた土地に家が建ち始めた。
家の再建には、全国から寄せられた総額190億円に上る義援金を基に133億円の復興基金が創設され、手厚い援助が行われた。日本赤十字社から400万円、道から20万円、町から5万円の計425万円が平等に贈られたほか、家が全壊した人が家を建てる場合700万円(4人家族まで)、土地購入費が二分の一を上限に100万円、家具家財の購入に150万円、仮設住宅からの引っ越し費用30万円が支払われた。商店や民宿などの開業資金や設備資金も二分の一を上限に4500万円が支払われた。震災から3年で、青苗の中心部に真新しい商店街が誕生した。高台への移転を希望した岬地区の住民のために、灯台の近くの高台に「望洋台」と名付けられた団地が造成され、28戸が暮らし始めた。 島は1998年3月「完全復興」を宣言した。
もうひとつ驚き、かつ目を見張ったのは、島内のいたるところに造られた防潮堤や、漁港の人工地盤、河川に設けられた津波水門、高台への避難路などの巨大なコンクリートの建造物群である。
学識経験者による委員会で、津波の波高・遡上高に関する観測データを基に地区毎に決定したという防潮堤は、総延長が14`、最高11.7メートルの威容を誇っている。工事は急ピッチで進められ、1996年度中に全て完成し、総事業費は211億円に上った。
青苗漁港の漁船が接岸する岸壁に造られた人工地盤「望海橋」は、幅が約30b、長さ約160bで、海面からの高さは約8b。地震の際は、漁師は階段を上って地盤部に避難し、そこから高台へと移動する。
また、地震発生時に震度4程度を検知すると、約1分間の非常放送後に自重降下してゲートが全閉する津波水門が、島内4つの河口に設置された。
さらに、地震の際にすぐに高台に逃げられるように、避難路が島内42カ所に張り巡らされた。夜間の災害に備えて、ソーラーパネルの照明も完備され、積雪期にも対応できるようにトンネル状の避難路も整備された。奥尻島の復興まちづくりが、防災施設の整備によって自然災害を防ごうという考えに基づいているということが強く感じられた。
防潮堤ができて、島の風景は大きく変わった。海沿いに車を走らせても海が見えなくなった。防潮堤によって潮の流れが変わり、海岸の砂が移動して砂浜が無くなった。良いアワビやウニの付いていた所からアワビやウニがいなくなった。風向きまで変化した。漁師からは、「安全になったけど、波の高さや風の様子が分かりにくくなった」、「海が遠くなってしまった」などの声が上がっている。
このような巨大な防潮堤を造るのに際して、当時住民の間でどのような議論あったのだろうか、という疑問が湧く。当時の住民アンケート調査(抜粋)によると、地区説明会では、「防潮堤の高さを低くし、あるいは設置せずに住みたい」という要望が出ている一方で、「岬は公園や公共施設として利用し、防潮堤を築く」という意見もあった。また、「住民が居住地を決める場合、防潮堤の高さや助成制度の内容が具体化するにつれ、意向に変化がみられる」という記述があった。奥尻の住民とのディスカッションの際に、「奥尻の復興を考える会」の事務局長だった制野征男さんは「(計画は)北海道(庁)が作ったんですが、地域に入って説明をして了解を得て建てたということなんで、防潮堤を6b、9b、11bにするのに、そんなに住民から抵抗があったというふうな記憶はない」と話している。
一方、島の中心部の奥尻地区で酒店を営む佐々木宏明さんは「できていく防潮堤に対しては、かなり違和感を持っていた人のほうがやはり多かったです」と語り、「観光が産業のひとつでありながら、ああいう防潮堤が簡単にできてしまったことについて、景観との絡みではどうなのかということを、非常に狭い範囲ですけど、議論をしたことはあります。観光で伸ばしていかなければならないのは明々白々なのに、あんなふうにコンクリートで囲んでどうするんだという声はあったが、その時は完全に決まっていましたから。2,3年のうちに防潮堤はできました」と述懐する。
工事の始まりと共に、復興特需と呼ばれる好景気が始まる。島外から最大2000人の建設作業員が入り、被災した漁民の雇用も維持され、島を潤した。防潮堤建設を含めた復旧・復興費は763億円に上る。当時、奥尻町の年間予算規模は約50億円。「そんな島に800億円近い公共事業が来るもんですから、カネ・ヒト・モノの動きがもうすさまじい訳です。我々民間の商店主ですが、その動きに乗らないことにはどうしようもない。批判的に受け取りつつも、やっぱり乗ってしまわざるを得ない、そういうことで、つい5年先、10年先を見る冷静さを欠くということが往々にしてありました。それは今、大きな反省です」という佐々木さんの言葉が印象的だった。
東日本大震災の大津波は東北各地の防潮堤を粉砕し、ハード面の対策には限界があるということを突きつけられた。コンクリートでは巨大津波を防ぐことはできないし、そもそも天災に対して万全の備えなどあり得ないということを思い知らされた。
防潮堤は、私たちの地域にとっても大きな課題だ。環境や生態系への影響を考慮し、景観に配慮しつつ、地域の地理的な条件に合った防潮堤の建設を目指さなければならない。
これから住民と行政、専門家をつなぐ話し合いの場で、奥尻島での見聞を活かしていきたい。

奥尻島マップ

震災前の青苗地区

震災直後の青苗地区

復興後の青苗地区












posted by 復興まちづくり推進員 at 19:07|
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2012年度